砂子家の環境と教師への憧れ
楽しかった小学校も卒業し中学校へ。当然のように野球部に入部しようと思っていたが、なんと入学と同時に野球部が1年間休部に。前年まで野球部顧問だった体育教師(男性)と音楽教師(女性)が結婚。
本当かどうか知らないが、「結婚したら同じ学校に居ることはできず、どちらか異動しなければならない」というルールがあるらしく、野球部顧問だった体育教師が中学校を去り、顧問不在ということで休部。これは完全に想定外だった。
そこでバスケットボール部に入部し1年間はバスケに没頭するつもりだったが、シニアリーグ(クラブチーム)に入り硬式野球をはじめる友人がちらほら現れ、それにつられるようにバスケ部を退部しシニアリーグに入団。
しかし、そこですぐに自分の野球の実力を思い知る。中学校の野球部でなく、わざわざ地域のクラブチームに通うくらいのメンバーは実力がある者が多い。実際、僕の同級生も高校は強豪校に進学して甲子園に出場し、1番バッターとして活躍していた。
実力を思い知った僕は、比較的すんなりとプロ野球選手への夢は自ら手放していったように思う。それと並行するように、将来の夢が先生に変わり始めたのもこの頃。
突如先生?と思うかもしれないが、そのルーツは砂子家にあると思っている。
両親こそ教育者ではないが、父方の祖父や伯父、伯母、伯母の夫にあたる義理の伯父が教育者。とにかく砂子家は先生が多かった。
「先生になりなさい」と言われた記憶は全くないが、自然に先生に興味を持ち「将来は先生になりたい!」と思っても不思議ではない環境が身近にあったのは間違いない。
そして「こんな先生になりたい!」と具体的に目指すきっかけとなったのは、中学時代の体育教師であったM先生。
このM先生は授業以外にも、プライベートのことなどいろいろ相談に乗ってもらった記憶がある。多感な年頃だったから、恋愛の相談でもしていたのかもしれないが、話していた内容は正直あまり覚えていない。
ただ、「授業以外のことでも相談に乗ってくれる先生はいいな」「将来はこんな先生になりたいな」と漠然と思い始めたきっかけがM先生だったことだけははっきりと覚えている。
中学時代、このような自分の理想とする先生が身近にいたことから、「このM先生のようになりたい」と将来の夢がプロ野球選手から先生へと明確に変わっていた。
野球の方はと言えば、決して手を抜くことなく練習にも真面目に取り組み続けたが、正直あまり良い思い出はない。
脱水症状にならないよう、こまめに水分を補給することが当たり前の今では考えられないが、私の中学時代は「水を飲むな!」という昭和バリバリの悪しき習慣がまだ続いていて、とにかくキツかった。
特に合宿のキツさといったら半端ない。日中、水分を堂々と飲めるのはお昼の弁当を残さず食べた後だけ。
キツい練習の上、喉がカラカラの状態で無理に弁当をかき込もうとしても食べ物が全く喉を通らならい。昼食はベンチ裏で隠れるようにして食べ、食べきれず残したものは山の斜面に捨てる。そして空の弁当箱を見せてコップ一杯の麦茶をもらう。
そんな無茶苦茶な時代だったが、良いように捉えると、忍耐のレベルは間違いなく上がった。それも、数段のレベルアップだった。
こんなスパルタ野球に食らいついていたのだが、興味の先はプロ野球ではなくなり、いつしか甲子園に夢中になっていた。そして、雑誌「輝け甲子園の星」を隅から隅まで読み漁る日々を過ごすうちに「甲子園に出たい!」という思いを強くしていた。
こうして「先生」と「甲子園」が融合し、いつしか高校の野球部の顧問になって甲子園に出場したいといった夢もこの頃から漠然と考えていたように思う。先生になりたいという思いは高校入学後も変わらなかった。
